首頁に戻る
今日の千菜 出雲蹴毬
今日の千菜
武漢肺炎の禍も久しくなりぬ。然れども人の心は死なざらむに切めてもの福と言ふ可き乎、何時から乎、常の物になりたる防毒面をば發展させ、良質なる吸氣に因り人の程を超えたる力以て勝敗を競ふ遊戲が島根の縣民の中に生まれけり。其の名も出雲蹴鞠となむ言ふ。
今日の學區内對抗戰に於いても、千菜は何時もの如く味方の足手纏ひと爲りぬ。著け面を通りて來る藥氣を何程吸ひ込みても、皆と同じ樣には力が大幅に上がる心地は爲ざり。自他共に其れを知りぬれば球の運びも自づから皆は千菜に廻さざりつ千菜も向かはざりつ成りて行きたり。
終りて戰ひには勝ちたり。本日は辛き勝利たるを思へば千菜が身を引きたるが故の勝ち也。千菜が遊ばざるが故の勝ち也。さかしやかしこしや、あはれなる。其の歸り道に於いて千菜は友の椿と步きつつあり。
「漸つと了つた喃ア」
千菜の哀しき勞を犒ふ樣に椿が聲を掛くに、千菜は肯うて返す。椿は固より體を動かす遊びを嫌うてある者の一人たり。千菜の競技中の扱ひを思へば心の中に通ふ所存らむと見つ。
「今日は辛かつたらう。彼んなん最う嫌やん喃ア。一人足らん乎て一々呼ばんと其の儘したら良えのに、次は最う斷りイ喃。合ふ合はんは人夫夫やで」
「う、うん」
千菜は椿の奬めに得ウ强く肯かざり。千菜は心の内には據り巧く成つて何時れ乎皆に喜ばれたしと、戰ひに絡みて行きたしとは思へど、罷めたしとは思はざり。今の所、何も言はずに己を寄せて呉れる皆の事を嬉しとぞ思へる。然し乍ら、其れを今隣にゐる友に言へば其れを傷附ける事と爲ると思へば進退谷まりてなむ仕舞うたり。
「然な再明日」
千菜は道の分れ目にて自づから椿と離れては向後の善處の當ても無く今日の事を振り返りたり。
「只今」と千菜が家の扉を開けば二階から足音强く急いで降りて來たる者存り。
「おウ御歸り。一寸此方に來イ」
見れば千菜の曾祖父が滿面に笑みたり。
「何なん?」
「良えさかい此方來イ早う」
千菜は曾祖父には年頃溺愛せられたれば、今日も再善き事なむと豫期爲り。靴を脱ぎ次第に二階に上がりて曾祖父の部屋に這入りたり。促さるる儘に部屋の一所に坐らば曾祖父は文机に置かれたる物を取りて千菜に見す。
「是れは、著け面?」
千菜が見たる其は正に競技にて用いらる面なりたり。然れども其の面は隨分年を經て草臥れて見えたり。
「然うぢや。曾御爺ちやんが喃、若い時分に使うて居つた物ぢや。其處の所を持つて嘗イ」
然う言はれて千菜は面の口先に著きたる吸收罐を手に持たば些か重たし。
「御前に合はせた成分を混ぜて嘗たんぢや。體は人夫夫ぢやから喃」
曾祖父は柔やかに笑みたり
今日の學區内對抗戰に於いては千菜は八面六臂の大活躍を嘗せたり。走らば待ち焦がれたる合圖を受けた軍用犬の如く風と成り、競り合はば野山羊の如く跳ね竝み居る長坊を股の下に見、球蹴ば空を突破り。功を擧ぐる度に仲閒からの稱への聲と觀眾の驚きの聲とが千菜の耳を擽り顏を赤らしむ。
「今日は凄い喃。自分に合ふ面を到頭見附けたがな」
千菜は今迄の分の御返しも爲し得たりと思へば喜びも一入なりたり。
「其れ、何が這入つてゐるのん?」
と仲閒に聞かれば笑み乍らも「判らへん」と答ふ。仲閒の内も大抵は配られたる物を其の儘使ひて、巧き術も無かれば更には己の爲に調へ誂ふる事は在らざり。故千菜の活躍も成る可くして成り。
戰ひ終りて皆に圍まれ、勝ちたる後の談笑を爲てゐる最中に千菜は目の端に椿が獨りで歸らむと爲る所を捉へつ。千菜に俄に後めたき心地ぞ起る。
(何も惡い事は爲てへんのに、何で……)
體を動かすのは樂し。椿は恐らく樂しからず。好みを異に爲ば卽ち訣れねばならざる乎。然に非ず。仲閒にも曾祖父にも、多くの物を與へられて來たるが故に今己は此處に在らむ。千菜は然う思はば、椿にも聲を掛けられて來たる事を思ひ出づ。己が苦しき時の恩を取りつ捨てつ選ぶ時、此の遊びは遊びにては無くなりて仕舞ふと思ひ千菜は驅け出づ。妙策無之
卷末
御意見御感想を待ち申します
首頁に戻る 作品卷頭を表示