「何で斯樣な事に爲つて仕舞うたんやらう……」
安く
輕き
木組みの
雛形の
家とは
言へ、
千菜は
其の
幼き
己が
身の
丈も
半に
及ばんとする
大物を
擔ぎ
乍ら
誰も
居らぬ
登り
坂道にて
自ら
問うたり。
今より數時閒前、千菜の母親が「部屋に物置棚の上、要らぬ物をば捨てて善く暮らさむ」と言ひ笑みき。此れを聞いたる千菜は初めに當りては何の異論も無かれば只「うんうん」と頷きたり。蒸鍋、古著、寫眞機、母親が家族を前にして捨てむとする物の名を次次に擧げて行きつつ存る時に千菜の顏色が變はりき。
「彼の小さな家も捨てう」
母親は笑顏の儘千菜の方に向いて言ひたり。其れは今に於ては最う久しく押入の中に存りて千菜も此れを玩ぶ事無く爲りたる雛形也。然れども千菜は此れを要らぬ物とは思ひも寄らざりたり。
「え、何で?」
「何で乎て、彼方最う遊ばへんがな。然うやらう?」
母の答へに千菜は當惑せり。刹那に、物物は常に使ひ續けねば直ちに捨てらるる無情の有樣が腦裡を過りたり。確かに此の玩具は千菜にしても最う押入より取出だす思ひ構への有らざりし物乍ら、其處に在ると、何時も在ると得思へばこそ安んじて愛想も無く暮らしつつ在りたり。其今、捨つと言はるれば己の一片を母の手に因りて捨てらるる心地ぞしたる。
「嫌や、捨てんといて」と言ふも幼かれば言葉巧みに母を口説く事能はざりき。於是、猶足搔く千菜の頭に案が浮ぶ。
「御婆ちやんの家に持つて行かう」
千菜の祖母が一人暮しにて家も小乍らも物は尠かれば空きは存分に有りたり。母も其れを知りては「向うの迷惑になる」とは咄嗟に言ひ辛かりたれば「向うに持つて行くのしんどいは」と拒みたり。
「車で運んだら直ぐやん」
と千菜は言ひつ。千菜は母の心積り抔知らざり。己が一片は家族にとりても大いに切る者の筈。千菜にとりては目的に比べて其の勞僅かの名案也。……然れど母は難色を示しつ。千菜は軈て母が大切なる物の爲にも努力を爲ぬ怠け者と苛立ち始めたるも、母を責むるは心に逆らふ所存れば助け船を出ださるるを望みて父の方に顏を向けたり。
「千菜、御母さんが御前の爲にも部屋を片附けたいと言うてゐるんやから協力しなさい」
其の言葉を聞く乎千菜は全身に心が通つたが如く憤然撥ね立ち足音を鳴らしつつ大股にて押入に向かひたり。
或いは父が千菜に「御前の爲に」とは言はざらば千菜は飛び出さざりたる乎も知らざりたり。
坂道も入り進みて少し經たば鋪裝路も切れ、砂利の上を步みつつあり。體中汗水漬くとなりて服の白地は盡く透け、鼻と顎とから瀝る雫が調子良く點點と地を濡らして之く。鼻水迄垂れて來つ。震へる足取りは少し高く上げねば爲らぬ所で足が上がらず遂に止まる事となりたり。
「何で斯樣な事に爲つて仕舞うたんやらう……」
千菜は考へ出だしつ。自分は今何を爲てゐる乎。其れを知つてゐたればこそ、彼の場にゐた誰よりも痛感したればこそ今此處に於て親に逆らひ獨り佇みて在れ。今一度自ら納得せむと思ひ巡らさば忽焉として其を言ひ表す言葉を忘れり。立止まりつつあれば汗も引き肌寒くなりぬ。自分は良い事を爲つつある。然れば何故に斯程に心苦しき乎。家の手傳ひ等にも疲るる事は多多有りたり。然れども其れが終れば家族が譽め勞うて呉れむと思はば嫌なる事にも爲甲斐てふ者ぞ存りたる。今是れに其れは無し。其の先に親の笑顏無くて、疲れは唯疲れの儘也。千菜は母も父も、誰も喜ばぬなら我は過たむ乎とも思ひ始む。固より我儘を言ふは惡しき事と心得たれば也。然れど引き返すには最早遠く、祖母の家の方が近し。故に今一步踏み出ださむと爲れども心に迷ひ存れば愈愈其の足重し。疲れて體止まらば意氣沈み、心竦みて再以て體止まるはいとも味のある絡繰哉、味無し。唯日の沈む迄此處に駐まる事は祖母だにも喜ばぬ惡しき事てふ明らめに因り千菜は進み出だしたり。
風も徐、唯砂利を踏む音が響く。千菜はふと此の試が上手く運びたる後の事を考へ始む。母の要る物と千菜の要らぬ物との閒なる此の捨つ可からざる物の一つが無事保たれたらば幸ひならむと千菜は想ふ。
(御母さんは知らなんだんや)
唯其處に在るのみにて己を幸福に爲る物の存る事を。「親は何をも知りたる筈也」、其の幼き期待を裏切られたれば千菜は困惑しき。是れからは己が知りたる事を教えて上げう。以前道で咲いてゐたる花の名を教えて上げた時の如く、己が賢き所を見せば必ずや母は喜び、暮しも元に?る筈。千菜は然う思へば俄に此の大切な物が今迄保たれてきた事を有難く思ひ始めさへせり。祖母の家は近くなりぬ